院生奮闘記

世の益にならないことを猛烈に書き殴っていきます。

「夜空ノムコウ」考

こんばんは。

すごく久しぶりにブログを開きました。

 

現在、午前5時15分。外は森閑としていて、聞こえる音といえば、動いていることを知らせるかのように時折高くうなる、冷蔵庫の電子音だけです。

近頃は院生らしく、論文や発表の締め切りに追われ、気がつけば昼夜が完全に逆転した毎日を送っています。

 

今日、ふとブログを書こうと思ったのは、息抜きがてらにSMAPの「夜空ノムコウ」を聴いたことがきっかけでした。

ここはひとつ、文学に携わる院生らしく、「夜空ノムコウ」の歌詞を追いかけつつ、そして気まぐれに解釈を施しつつ、朝日が昇るのをひとり静かに待とうと思います。

 

 

夜空ノムコウ

作詞:スガシカオ 作曲:川村結花

 

「誰かの声に気づき  ぼくらは身をひそめた
公園のフェンス越しに夜の風が吹いた

君が何か伝えようとにぎり返したその手は
ぼくの心のやわらかい場所を今でもまだしめつける」

 

 

これは第一番の歌い出しの部分ですが、おそらくは付き合っているのであろう男女が、夜の公園にふたりで佇んでいる、そのような情景がまざまざと思い浮かんでくる描写です。「夜の風が吹いた」という、感覚に関わる表現がほのめかすように、この歌詞を今回初めてじっくり読んだとき、直感的に、「君」が手を「にぎり返した」のは近過去のことなのではないかと、僕は思いました。つまりふたりは、今現在公園にいるのだと。そうして、今現在ふたりは手をにぎり合っているのだと。そうした映像が僕の脳裏に投影されました。

 

しかし、最後の部分で「今でもまだしめつける」という現在完了形の時制が使われることで、前半の描写は、在りし日の、すなわち遠い過去のことなのだということが、唐突に知らされます。時間の隔たりが強調されているということです。

こうして「夜空ノムコウ」は、その冒頭から、〈過去〉と〈現在〉、その断絶と繋がりの有り様を、懐かしさの名残を散りばめつつ、きわめて残酷な形で描き出します。

 

そもそも、この歌のタイトルが示唆するように、「夜空」の向こうからやってくるのは「明日」という時間であり、それはもちろん、一般的には新しい物事の始まりを意味するのでしょう。

しかしながら、この歌のどこか哀しげな曲調を踏まえるなら、おそらく語り手の思考にあるのは、朝日が象徴するたぐいの明るい未来への展望ではなく、むしろ、容赦なく巡ってくる時間の波、その波に呑まれてやがては消えていくであろう「君」と過ごした時間の記憶、すなわち、時とともに失われゆく過去の記憶と過去の感覚、そうしたものなのだと思います。

 

冒頭で示される時間の主題は、そののちも、語り手によって反芻されます。

 

 

「君に話した言葉はどれだけ残っているの?
ぼくの心のいちばん奥でから回りしつづける」

 

 

今はもういない「君」との来し方を思い起こす語り手の思考は、徐々に、〈過去〉と〈現在〉の断絶へと収斂していきます。

あの頃、「ぼく」が語りかけた「君」への言葉は、「君」の記憶にどれだけ残っているのだろうか。残酷な言葉に置き換えるなら、今現在までにどれだけ消えてしまっているのだろうか。

そのようにして、語り手は、ふたりを繋いでいた「言葉」という絆の儚さに思いを巡らせているのでしょう。

 

だからこそ、「君」という行き先を失った「ぼく」の「言葉」は、「ぼくの心のいちばん奥」で果てしのない円を描きつつ、空転しつづけるしかないのです。そして、今はまだ「ぼく」のなかに残っている「言葉」も、いずれは、「明日」という時間の波に押し流され、「ぼく」のなかからも消えていくのではないか。語り手の思考もまた、そのようにして「から回り」しつづけるわけです。

 

 

「あれからぼくたちは何かを信じてこれたかなぁ...
夜空のむこうにはもう明日が待っている Woo...」

 

 

歌の最後、「信じてこれたかな」とつぶやく語り手は、ふたたび現在完了形の文を使うことで、君がいた〈過去〉と君がいない〈現在〉を接続しようとしています。しかしながら、その文尾が疑問形になっていることを、見逃すべきではないでしょう。すでにして、〈過去〉と〈現在〉の隔たりに、語り手は気づいているということです。

 

「明日が待っている」という締めの言葉もまた、「もう」という副詞を伴うことで、明日という時間の到来がすでに揺るがし難い事実であることを、このうえなく鮮烈に物語っているように思います。

「君」と過ごした〈過去〉の記憶をかすませ、〈過去〉と〈現在〉の隔たりをまたひとつ大きくする明日の到来を前に、語り手は抵抗する術をなにひとつ持ちません。

だからこそ、その後につづく「Woo」というハミング部分に読み取るべきは、朝日の輝きのような明朗なムードではなく、夜のしじまに回収されてゆくたぐいの語り手の嘆きなのだと、僕は思います。

 

 

夜空ノムコウ」という歌は、過去を乗り越えた人間の輝きに満ちた〈これから〉を謳っているのではなく、かすんでゆく記憶の皮膜をたぐり寄せ、薄れゆく〈あの頃〉の感覚にしがみつこうとする、人間存在の悲哀をこそ謳っているのではないか。

この歌を聴くと、そうしたことを考えてしまいます。

 

 

そうして、僕の思考も、語り手のそれと同様に、時間に関わる身近な出来事へと枝分かれしていきます。

 

 

かつて叔父にカラオケに誘われたことを、ふと思い出します。昭和歌謡を好む僕は、二つ返事で承諾しましたが、結局その約束は、時の流れとともに、うやむやに立ち消えてしまいました。その叔父は今、若年性のアルツハイマーを患い、会話もままならない状態になりました。叔父は、僕と交わした約束を覚えているのでしょうか。

そして、やがては僕も年をとり、叔父との約束を忘れる日が来るのでしょう。

そのとき、ふたりが交わしたあの日の約束は、一体どこにいくのでしょうか。

 

 

窓の外が少し明るくなってきました。

やがて日の出がやってきます。

 

「夜空」の痕跡を感じ取りつつ、茜さす朝を迎えるという僕たち人間の営みは、〈あの頃〉の記憶を絶えずすり減らしながら生きてゆく、そうした〈喪失〉と〈懐古〉の狭間で悶えることの謂なのでしょうか。