院生奮闘記

世の益にならないことを猛烈に書き殴っていきます。

「流石」という言葉の駿府城的語源について

こんばんは。

お腹を壊しました。

きっと昨晩窓を全開にしてお腹出して寝てたからです。しかし、いくらなんでも昨日まで蒸し風呂のような天候だったのに、今日は一転して寒すぎやしませんか。流石に適応できません。

 

ところで、今僕が使った「流石(さすが)」っていう言葉の語源、知ってますか?

 

 

 

諸説あるそうですが、最も有力な説は、安土桃山時代にまでさかのぼるそうです。

 

時は1585年(天正13年)、まさに群雄割拠の時代。

のちに天下人となる徳川家康公は、駿河国を支配することにあたり、浜松城を退き、駿府の地に城を築くことにしました。築城奉行に任ぜられたのは、深溝松平家の4代目当主である松平家忠。こうして、家忠の陣頭指揮により、4年後の1589年、かの有名な駿府城が完成します。

 

日本の城と呼ばれているものは、例外なく強固な石垣を基礎とし、その上に天守を設ける形をしています。だからこそ、城を支える石垣の建設には、多大な費用と時間、そして何より、石を正確に積み上げる技術が求められました。

石と石の間に少しでも隙間があれば、雨水がそこを伝うことになり、たちまちのうちに隙間は開き、石垣は天守を巻き込んで崩落してしまいます。したがって、築城奉行の絶対的使命は、「いかにして雨水を通さない石垣を作るか」でした。

 

そして、家康の命を受けた築城奉行・家忠は、その緻密な築城計画に基づき、文字通り一寸の隙もない石垣を建設したと言われています。

完成した駿府城を一目見た家康は、その石垣のあまりの正確無比な出来映えに息を呑んだとさえ伝えられています。

 

このことから、「雨水がれない垣」を作ることができる家忠のような人を、「流石」と形容するようになったといいます。転じて、技術的レベルの高い人を指して「流石」と言うようになりました。

 

この語源にまつわるエピソードは、1951年に井上風五郎という人が出版した『熟語の語源的研究―日本の城から考える言葉と文化―』(角川書房、1951年)に載っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

うそです。そんな説はありませんし、井上風五郎なんて人もいません。もちろん、『熟語の語源的研究』なんて本もありません。

 

そういえば、中学か高校の国語の授業で「流石」の語源を習ったような、習わなかったような。